理屈よりも体の感覚が好き。直感が大事。


by hiroQ111
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ず~っと長いこと、不思議に思っていたことがある。
自然には無駄がない。それはわかる。
では、なぜ、私たち人間はそれぞれの人生を
いつも赤ちゃんから始めなくてはいけないのか。

私は輪廻転生はあると思っているし、
光の層だとか、集合意識、集合無意識に
アクセスしているひとがいるとも思っている。
まずはここが前提となる話だが。

魂は学び成長するものだと考えると、
ひとつの人生を終える頃には相当の経験がたくわえられる。
数百の人生を終えた魂なら、その経験値は「賢者」に等しいとさえ思う。
なのに、私たちの魂は、その情報を常にリセットされ、赤ん坊としてこの世に生まれる。

私はもう何回も考えた。
この経験を持ったまま、若い頃にリセットできたら、
いまよりもっと面白い人生を歩めただろうにと。

でも、すべての人生は赤ん坊から始まる。

この点について、宇宙、自然の合理性はどこにあるのか。

ゼロでなければ、できないこと。叶わないこと。

それが、「感じる」ことではないだろうか。
経験を記憶していると、
感じる前に、「危険」だの「常識」だの、
あのひとはこうだ、このひとはどういうひとだのと「浅知恵」が働いてしまい
ただ感じれば良かったものを、
過去のデータによって色付けしてしまう危険性が多いにある。

魂は感じたいのだ。
感じることのできる、芸術的に素晴らしい装置なのだ。「人間」は。

好きな場所を感じる。おもしろい話を感じる。
太陽の熱を感じる。光を感じる。風を感じる。
緑のみずみずしさを感じる。枯れ葉のかさこそと鳴る音を感じる。
ひとの痛みを感じる。無条件の愛情を感じる。

これら一連の流れに心を浮かべていると
その流れが複雑に押し寄せてくるほどに、
心には、幾重にも色を重ねたような、深みのある「感じ」が生まれる。

雨を感じ、雨上がりの清々しさを感じ、晴れた日の開放感を感じる。
この一連の流れに心を浮かべるからこそ、
様々な「感じ」が交差し、またつながりあい、からみあい、あるいは反発しあって
さらなる「感じ」の誕生を促すのである。

ちょうど池に投げ込んだ石が波紋をひきおこすようなものだろう。
見るもの、聞くもの、肌ざわりなどによって
「感じる」池に石や葉が投下され、波紋が生じる。
波紋はつねに複雑にからみあって新しい流れを創り出す。

感じることを自らの糧に換えられる種族は、芸術家だけだろうか?

新鮮な野菜を求めることは?
昔むかしの歴史に想像をめぐらすことは?
商品づくりは?世紀の大発明は?

私たちが磨かなければならないとすれば、
頭でも精神でも身体でもない。
むしろ「感じる」ことだと思う。

もしも、
「感じる」ことが、魂のリトマス試験紙で、
魂との対話がまさに「感じる」ことだとしたら?

もしも、もしも、
「感じる」ことが、
宇宙や自然、あるいはある次元層のエネルギー源になっているとしたら
私たちはせっせせっせと「感じる」ことで、宇宙や自然に貢献できる。
かもしれない…。

さては、感じてみるとしましょうか。
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# by hiroQ111 | 2006-05-15 02:38 | 今日の発見